2.5次元が『リアル』になるとき【論考・寄稿再録】

掲載:「PORCh」 VOL.2
発行:2013年3月17日 TERMINAL
初出し:HARU COMIC CITY
詳細:http://terminalporch.blog.fc2.com/blog-entry-4.html
(掲載誌の再販状況など最新情報はTERMINAL STATIONさんでご確認ください)


2.5次元が『リアル』になるとき / 瀬川チサコ

2013年1月11日仏滅。舞台『少年ハリウッド』のファンが、嘆き怒り悲しむ大事件がおきた。原案者ブログにて、作品のアニメ化企画と、主催を変更しての『“少年ハリウッド”のリアルメンバー』募集が告知されたのだ。
舞台『少年ハリウッド』(以下『少ハリ』)は、小説『原宿ガール』を原案とした男子アイドルグループ『少年ハリウッド』(以下『少ハリちゃん』)の青春物語。2011年に上演された初演が人気を博し、再演、小説化などが継続展開していた。
ところが事件の3日前、突如公式ブログ・Twitterの閉鎖が告知され、翌日にはアカウントが削除されてしまう。同時期に、少ハリ第2弾とも取れるような別タイトルを主催会社が告知したこともあり、再々演など少ハリの更なる展開を期待していたファンは、もう少ハリちゃんに逢えないのかな……と、不安を募らせていた。そんな折のこの告知。もはや事実上のキャスト変更宣告である。「怒りでオレンジ(少ハリちゃんファンの公称)がマーマレード化した」なんて言葉も広まるほど、ファンの心は荒れに荒れた。
メディアミックスが当たり前になり、原作ありきの舞台ラッシュの昨今。同原作の舞台を別会社主催で上演することもままあるのに、何故そこまで騒ぎになるのか?と、疑問に思う方も居るだろう。そう、少ハリは少し特殊な舞台だったのだ。
少ハリちゃんには『中の人』が居ない。いや、より正確に言えば、『少ハリちゃんは“外の人”』なのである。

おおよその舞台演劇では、登場人物は『ステージの向こう=客席』の存在を認識しないという体でつくられている。そして観客も『実在の世界』と『舞台の世界』をそれぞれ成立させるために、ステージと客席の間に無意識に『世界の境界線』をつくっている。ステージ上=境界線の先には、ステージに立つ役者が居るのではなく『舞台の世界の“現実”の出来事』が広がっているとする。こんな感じのお約束事を、演劇の世界では『第四の壁』と呼ぶそう。
(他のメディア作品でも一般的に使う模様。マンガの紙面やテレビの液晶画面、パソコンのモニターがイメージされる。)
『壁』なんて名前だからムラムラされるのか、突破を狙われることもあるそうで。例えば、登場人物が自分は芝居の中の存在なんだと自覚してみたりとか。観客を舞台に参加させて、物語に登場させてみたりとか。客席参加タイムのある舞台は、結構見かける。
少ハリも舞台前半が芝居パート、舞台後半がライブパートになっていて、ライブパートの観客は『ハリウッド東京』という劇場に少ハリちゃんのライブを観にきた観客(=オレンジ)という『役』をもらえる。テニミュファンの間では、ドリライ時に出演者をキャラクター名・キャスト名のどちらで呼ぶべきかの論争があるが、少ハリのライブパートの客席で『キャストのファン』はまず見かけない。観客は自主的に少ハリちゃんメンバーのうちわやペンライトを用意し、『少ハリちゃんを応援するオレンジ』としてハリウッド東京に在る。
観客がオレンジになり劇場がハリウッド東京になることで、芝居パートではステージと客席の間にあった世界の境界・第四の壁の先、『少年ハリウッドの世界』に私たちはTRIPできる。

お芝居が終わると私たちが居るのは『実在の世界』になるが、旅は終わらない。
まずハリウッド東京の客席を出ると、劇場ロビーで少ハリちゃん特集の雑誌、少ハリちゃん写真集が販売されている。ここにはキャストの名前は掲載されていない。
舞台の顔であるキャストは、とても重要な存在だ。キャスト目当ての観客も軽視できないからか、舞台公式はキャストの情報をいろいろな場で差し出してくる。そういう時代を生きているので、商業演劇・特に若手俳優出演舞台の会場ロビーでは、キャストのインタビューや写真が載った公演パンフレットを売っているのが当たり前という感覚がある。そんな中、少ハリは公演パンフレットを売らない。その代わりなのかと思われる雑誌・写真集にも、キャストは居ない。『中の人』を見せないそれらはまるで『実在の世界のアイドルかのよう』な扱いで、手に取るファンをオレンジのままにする。
そしてインターネットを覗いても、舞台公式ブログやTwitterではキャストよりもキャラクター(=少ハリちゃん)が目立っている。『少年ハリウッドの世界』が流れるタイムラインは、ファンの日常をオレンジの日常にする。
ここまでなら、制作側の世界観づくりが徹底しているなぁと感動するだけにとどまるかもしれない。しかし! なんと! 更に! 少ハリちゃんは世界を飛び出す。
アイドルグループ『少年ハリウッド』として、別の舞台作品・ライブ・イベント・市販雑誌に登場するのだ。『実在の世界』の若手俳優と少ハリちゃんが、隣に立つ、会話をする。『実在の世界』と『舞台の世界』の境界は、もうステージと客席の間ではない。私たちは『実在の世界』のオレンジだ。
そして、アイドルがすべからく演じられた存在で、その演技を信じる他者によって実在できるものなら。キャストが演じなければ存在できなかったとしても、私たちオレンジがいる限り、アイドルグループ『少年ハリウッド』も『実在アイドル』に違いなかったのだ。

さて。先ほどチラリと述べた、ドリライ時に出演者をキャラクター(以下『キャラ』)名・キャスト名のどちらで呼ぶべきかの論争。実際のところは、圧倒的にキャスト名で呼ばれている。ドリライで上演する内容は、概ね原作には存在しない。(ミュージカル本公演に入らなかった原作のエピソードも時々含まれる。)かと言って、ステージ上にキャストとして居るのは特殊な場合(キャスト卒業時など)のみで、通常はキャラがライブをしているという体。キャラがライブをしている体というのは、少ハリのライブパートと同じだ。
ステージ上で繰り広げられるすべてを舞台上の現実と信じるために、現実の世界の脱出口・舞台の世界の入り口の境界線として第四の壁ができるわけだけど、『ステージの向こう=客席』を観客と認識し、自分たちが歌っているという認識のあるライブには、客席とステージの間に『第四の壁』が存在しない。でも、少ハリの観客がステージ上の彼らを少ハリちゃんとした(=第四の壁の先に行けた)のなら、ドリライでもステージ上の彼らをキャラとすることが『お約束』として主流になるはず。身贔屓な発言かもしれないが、お約束を破り舞台上の世界観を闇雲に壊すほど、テニミュファンは無粋じゃない。『舞台上の世界の“現実”』に居るのがキャラではないとさせる何かがあるのだろう。
じゃあテニミュのファンが見ている舞台上の現実って何なのか。ドリライのベースとなるミュージカル本公演でファンが見ている『舞台の世界』から探ってみる。

そもそもミュージカル『テニスの王子様』なんだから、『舞台の世界』は『テニスの王子様の世界』のはず。
ステージの向こうにある『テニスの王子様の世界の“現実”』で、青学は対戦校と一緒に群舞をする。試合中に歌って踊る……あれ? 『原作の世界』では、群舞も、試合中に歌ったり踊ったりもしないよ!? 試合中に選手が変装して入れ替わることはあるけれど、チームメイトもコートに入ってきてラリーしながら歌って踊ることはない。おかしい!
テニミュは原作付き『ミュージカル』だ。原作を知っている観客の中にはもう、信じている『原作の世界の“現実”』がある。テニミュは原作に忠実だとか、キャラの再現度が高いとか評されている印象だけど、原作世界の現実を持っている観客にとって、ミュージカル仕立てで再現されているステージ上のすべてを『テニスの王子様の世界の“現実”』とはできない。それは歌って踊っていなくても難しかったことだろう。
歌って踊ることそのものは第四の壁の破綻を招かないと考える。テニミュファンに馴染みが深そうな例で言うと『マグダラなマリア』初演。歌のシーンは物語の中でも実際に歌っているとされることが殆どだし、歌が物語世界にとって異質じゃないから、ステージの上にあるのは『マグダラなマリアの世界の“現実”』だと私は信じた。
あくまでも原作世界の現実を持っている観客にとって、ステージ上を『テニスの王子様の世界の“現実”』とすることが破綻しただけで、原作を知らない観客の前には第四の壁が出現でき、ステージ上を『テニスの王子様の世界の“現実”』だと信じられるのかも。あるいは既にメディアミックス作品を受け入れ『テニプリの世界』という、より寛容な概念で原作世界の現実を上書きしている層も、『テニプリ世界の“現実”』なのだとして不信の停止が成立しているかもしれない。
(例えるなら、不二役キャストの身長が高かった場合に、第四の壁の向こうが『テニスの王子様の世界の“現実”』ならば『不二は背が高い』となり、第四の壁の向こうが『テニプリ世界の“現実”』ならば、『不二は背が低いことや高いことがある』となる。)

じゃあ『原作の世界の“現実”』を持っている観客にとって、ステージ上にあるのは何か? 『ミュージカル』だ。
『ミュージカルで“テニスの王子様”を表現しようとする世界』が、ステージ上に存在している。(『不二役キャストの身長は高いが、不二は背が低い』という『現実』だ。)
ステージに立っているのは、キャラを再現しようと演じているキャストで、ステージはミュージカルが上演されるステージ。その世界はあらゆる手法で『テニスの王子様の世界』の表現を目指し、同時に観客を楽しませようとする。特に1stシーズン初期の一年生トリオによるストーリー解説や、ゲスト校の幕間劇などは、ミュージカルを観ているという意識を観客に強くさせる。そして表現が極まった瞬間、キャストは舞台上の現実のキャラに、ステージはコートになり、群舞中のステージは(不肖な喩えだが)『栄光の場所』のような象徴された場所になる。
第四の壁の先に『原作の世界の“現実”』を見いだせなくとも、『舞台の世界の“現実”』が挑戦する先に『テニスの王子様の世界の“現実”』が見えてくる。
自発的に公演アンケートへアドバイスをびっしり記入する、というテニミュファンの特徴がシリーズ初期から既にあったのは、観ているものが『ミュージカルで“テニスの王子様”を表現しようとする世界』だということも背景にあるかもしれない。
ドリライでキャスト名を呼ぶことは、テニミュファンにとっての舞台上の現実が『キャラを演じるキャスト』であるため、世界観を壊すことにならないのだ。

『ミュージカルで“テニスの王子様”を表現しようとする世界』は、ステージの上にとどまらない。
——会場ロビーで販売しているパンフレットには、『キャラを演じるキャスト』(以下『ミュキャス』)の芸名・プロフィールなどの『設定』やコメントが掲載されていて、まるで『実在の世界の俳優かのよう』な扱いだ。テニミュ公式サイト・ブログにも『ミュージカルで“テニスの王子様”を表現しようとする世界』が展開している。更にミュキャスは世界を飛び出し、別の舞台作品・ライブ・イベント・市販雑誌に登場し——
そもそもテニミュは俳優が演じているミュージカル作品なのだから、キャストである俳優は『実在の世界』にいる。
しかし第四の壁の先に『ミュージカルで“テニスの王子様”を表現しようとする世界』を作ると、舞台上の現実の登場人物(=ミュキャス)としての彼らが観客の中に出来上がってしまう。
少ハリちゃんが『中の人』とは別の存在・『外の人』として『実在アイドル』であったことに対し、観客が個々に作り上げた『ミュキャス』というキャラクターは『中の人(=俳優)』を乗っ取り『実在俳優』になる。

ミュージカル『テニスの王子様』を観に行って『ミュージカルで“テニスの王子様”を表現しようとする世界』を観る、というメタ的体験の発生には、演目の構成や内容も大きく影響すると考える。テニミュ初体験がキャラがライブをしている体のドリライの場合は、キャラ名を呼ぶ方がしっくりきそう。
そして過去にメタ的体験をしたファンが、以後のテニミュで『体験する必要がなくなる』時もくるんじゃないだろうか。一年生トリオが解説のために歌ってくれることを『当たり前』としていたら、それはもう『テニミュの世界』が新しく生まれている。

前述の他にも一つ、面白い『ファンがテニミュに向ける視線』を体感したことがある。キャラの面影を求めることが目的な『“キャラをたずねて三次元”ゾーン』。このゾーンが発動すると、『実在の世界』も『舞台の世界』もない。等しく『キャラが居ない世界』だ。面影を感じた瞬間のみが、『個人の現実』に吸収される。
これはキャラに限らず、俳優でも歌手でも『手の届かない好きなもの』に置き換えられる。『好きなもの』は個人の現実でルールをもって存在し、一つの世界をつくっている。

同じ実在する世界に居ても、個々人が見ている現実はこんなに多様だ。

(瀬川チサコ 2013.03.10)